著:フシダナナコ
20代の頃、芝居、映画制作、ダンス、結婚、離婚とやりたいことをやり尽くし、40歳を目前にして現実に気が付く。
現在は普通の会社員。
休日には趣味のもの作りに没頭し、愛犬と戯れるのが唯一の癒し。
得意技はちょいダメ男の一本釣り。
41歳、バツイチ、子なし。
地方在住の普通の会社員。
外見も内面も少々グチャグチャな私が、ひょんなことからここでコラムを書かせていただく機会をいただいた。
森林さんの思いの詰まったこのサイトで書くからには、何も取り繕うことはしない。
リアルな思いを綴っていくので、お付き合いいただけましたら嬉しい限り。
このコラムの打ち合わせで森林さんと初めてお話ししたときのこと。
私がどんなことを考えている人間なのか、これまでどんな環境で生きてきたのか、かなり大雑把に話した後、こう聞かれた。
「パートナーはあなたに対して『可愛い』って言いますか?」と。
答えるのに少しの躊躇いがあった。
初めまして、と話し始めてからたった30分程で、私の内面を見抜かれた気がしたからだ。
パートナーからは「可愛い」と言われるときもある。
そんなとき私はいつも笑って「美的センス疑うね。」などと茶化してはぐらかしてしまう。
そう話したら「そこは『ありがとう』だよ。『でしょ?』って言えばいいんだよ。」と言われてしまった。
それが正解であることは、私も随分前から知っている。
だけど私はそれができない。
いつからか分からないくらい、ずっとそれができないでいる。
何も言い返せず「ですよねー。」なんて言ってヘラヘラしている私に森林さんは言った。
「あなたとつながりたいと思って相手が言ってくれる『可愛い』を、冗談でも否定してしまうのは相手に失礼じゃないかな。」
少し叱るように、諭すように。
なぜ私は自分に向けられる「可愛い」という言葉を素直に受け止められないのか。
それが最初のテーマに決まった。
自分が女性であること。
私はそれを少し恨めしく思う時期があった。
10代半ばの思春期の頃。
あの頃の「可愛い」とは単純に容姿に対しての称賛の言葉だった。
どちらかと言えば不細工だと自認していた私には縁のない言葉。
「可愛い」と言われる女子に憧れの感情を持ちつつも、「どうせ私なんか」という卑屈な思いがあった。
可愛くない自分には女子としての価値がない。
でも不細工だと面と向かって言われたくはない。
男っぽく振る舞えばそもそも可愛いか否かの評価の対象に入らないのでは、と無意識の防衛本能が働いたのだろう、私は制服以外のスカートを履かなくなった。
そんな私でも、なぜか好きだと言ってくれる男の子がいた。
私もその子のことが好きだったので、中学卒業のタイミングで付き合うことになった。
それから程なくして発せられた彼からの「可愛い」の一言。
不細工な自分には相応しくない称賛の言葉。
今なら「ちょっと戸惑っただけ」で片付けられるくらいの感情が、ものすごいスピードで嫌悪感に変わりあっという間に私から別れを切り出していた。
その後、私は好きになった人と付き合っては短期間で別れる、ということを何回か繰り返した。
別れを切り出すのはいつも私で、しかも一方的に。
いずれもキスどころか、手を繋ぐことすらなく。
何が嫌だったのか。
自分に相応しくないことを言う彼に疑念を持ったのかもしれない。
「可愛い」と言っておけば機嫌が良くなる単純な女だと思われたくなかったのかもしれない。
その言葉の裏に、何か性的な下心を感じたのかもしれない。
多分、どれもそのときにあった感情。
要するに、急に「女」として見られたことにびっくりして拒絶にまで至ってしまったのだと、今回こうして振り返っていく中で初めて気が付いた。
自分の持つ女性性。
それを私はいつからか自分の奥底に押し込めて、自分でもその存在に気付かないふりをしいたのだ。
それは誰にも見られたくない、触れられたくない部分。
経験や年齢を重ねる中で「女」としての自分を大分受け入れられるようになった。
と、思っていたけれど。
どうやらそういうわけでもないらしい。
いつ誰にかけられたのか、はたまた自分でかけたのか。
未だ解けきらぬ「可愛い」の呪い。
今はこのコラムを書き進めることで、それを解く糸口が見えるような気がしている。
↓ 続きはこちら
女はミニスカート、いつまではいていいですか②~「可愛い」の正体~